昔20代の頃、スキューバダイビングをしていた時期に、一泊二日で伊豆の海に潜りに行ったことがある。
ダイビングスクール主催の旅行で、その馴染みの旅館に泊まった。
囲炉裏があり日本家屋の趣がある味のある旅館だ。そこで磯自慢を振る舞ってもらった記憶がある。
そこの店主は風来坊というか熊のような出立で、その人の妻のように見える女性は、長いことパートナーのようだが籍は入れていないらしい。
夜な夜なよもや話をしている中で、酔っ払った上での話として戦争があったら国を守るために志願するか?、とその熊さんに聞かれた。
この頃、三酔人経綸問答の本を読んでいたかは定かではないが、国を守るためには戦わねばならない、という主張と、平和のためにたとえ銃を向けられても戦ってはいけない、という主張、そしてその間を取り持つ先生、その3人の問答を思い出すテーマだった。
あの頃の僕は、日本が戦争になるなんて現実的に考えられず、その時がきたら志願するか、という質問にリアリティを感じられずに返答に窮したことを記憶している。
熊さんはそんな僕に苛立ち、若者がこの国を守らずしてどうする、というようなことを言い自論を熱く展開していたが、パートナーや周りの人にたしなめられていた。
ロシアのウクライナ侵攻という衝撃的な事件は、僕にその質問を呼び起こすのだ。
NATOに非加盟であるウクライナは、ヨーロッパ周辺国からの軍事的支援は受けられず、またアメリカも軍の派遣はしないことを繰り返し言っている。
孤立無援のウクライナは、自国の軍隊のみならず、市民から広く志願兵を募り、実際に志願する市民は後を立たず、また火炎瓶を作りロシア軍の侵攻を防ごうと市井の人々に呼びかけている。
日米安保条約のある日本は、ウクライナとは同じ立場にはないのだが、安保条約があるから、日本が戦わなくて良い、という理屈にはならない。
実際に自衛隊がその任にあたることになるが、ウクライナの大統領の胆力や市民の勇ましさを見ていると、「自分の国は自分で守る」という気概について考えずにはいられない。
結局のところ、自分の国が軍事的侵略を受けた際に、我々市民はどうなるのだろうか。そしてどう動くのだろうか。
ロシア、中国、北朝鮮。日本の周辺にある危機を思うと、この事件は決して遠い話ではないのだ。
今回の件を契機に、防衛力強化/軍事力強化の流れができるだろう。
交渉も軍事力がないと対等にならないことも示されている。抑止力こそ世界平和に必要なのだという考えから、軍備増強が各国で叫ばれるかもしれない。
自国主義の傾向が強まる中、それはロシアとNATOの間で生まれる緊張による悪循環のように、各国の緊張を相互に高めるだけではないか。
軍事力が外交手段の一つになってしまう。時代は逆行してしまうのだろうか。
憲法9条は外交上ユニークだ。
その解釈や適応範囲、憲法上の記載について様々な議論が続いてきたが、リアリティが増した今、改めてその意味を考える機会が生まれている。
ちなみに、プーチンの決定は到底受け入れられるものではないが、それに至る背景に関する記事は色々あるようで、(当然ながら)単純な話ではないのだなぁ、とも思う。
サンプル: