グランドモスクを見た後は、ケロアンのメディナを散策する。
チュニジアでもメディナを見たが、メディナは各地にあるインフラなのだ。
ふらふら歩いていると、日本語で話しかけられる。
むむむと振り返ると、そこに立っているのは日本人ではなくチュニジア人。
招かれる様に彼の店に行き、そこでいろいろ日本での写真を見せられた。
なんでも、過去に日本で仕事をして生活をしていたらしく、日本人女性と結婚していたようだ。
子供も二人いるのだが、日本の生活に馴染めなかったようで、子供二人とチュニジアに戻ってきたとのこと。
突然日本語が通用すると、言葉の切り替えにちょっと戸惑うが、新鮮だ。
チュニスには行ったか?あそこは色んな人がいて危険だから気をつけろと、と言ってくる。
そうなのか。ますますあの出会いは幸運だったのだなと噛みしめる。
しばらく談笑し気づけば彼の店に招かれているのだが、お土産は買う気は無いので店を後にしようとするが、ここでも、左の人に日本の土産をくれと言われる。
しょうがないので、またもやボールペンをあげた。複数本持って来たボールペンが、こんな形で役に立つとは!
ボールペンでも十分喜んでくれるので、チュニジアへ行くひとは、ボールペンをエスケーブゴートとして数本持って行く事をお勧めしておきます。
帰ろうとすると、サハラ砂漠のバラ、なるものをくれた。砂漠の結晶のようだ。
さらに、良い写真の撮影場所があるんだ、連れてってやるよ、と言ってくれるのだが、もうモハメッド達と会う時間だ。
礼を言って別れる。珍しい出会いだったなぁ。
そんなケロアンを後にして、次はスベイトラの遺跡である。
スベイトラ遺跡
チュニジア中央西部,カスラインの東北東 31kmに位置した古代ローマの都市スフェトゥラの遺跡。起源は,1世紀初めのヌミディア人の反乱に対する遠征中の城塞としてつくられたもので,それ以後ローマの自由市,次いで2世紀後半には植民地となった。限られた水を有効に利用するローマ人の技術によって,この地方はオリーブを中心とした農業地帯となったが,ローマ時代以後は衰微した。この町は,646年頃アラブ人により破壊され,現在ではアントニヌス・ピウスの凱旋門や神殿の遺跡が残されているにすぎない。
コトバンクより
チュニジアに於けるローマ時代終焉の地とのこと。
ビザンチン帝国(東ローマ帝国)時代に、チュニジアの最高責任者グレゴアールがコンスタンチノーブルから独立宣言し、この地を首都としたのだが、完成後、間もなくアラブ兵によって追放された。かつてカルタゴに次ぐ都市として栄えていたらしい。
下の写真は劇場。円形のものは闘技場として、半円形は劇場として利用されたそうだ。
演劇や演奏などを楽しむ場所が、この劇場。川が後ろに流れていて、音を吸収する仕組みになっており、居住地への配慮がすでに当時から考案されている。
他にもオリーブ圧搾台や居住区、浴場等々が遺跡として周辺に残っている。
ランチを食べて、次に向かうトズールへ備える。
ドライバーのゾハイアは新聞のサッカー欄のスコアを入念にチェックしている。
聞けば、チュニジアのサッカークラブに所属していたようで、クラブを辞めてから職を探し、今のドライバー業を9年ほどやっているようだ。
ドライバーどれぐらいやってるの?という質問からそこへ辿ったのだが、なぜそんなことを聞くんだ、と言い返される。
うーん、まだ認められていないのだろうか、サッカーを辞めてドライバーへ転身した”節目の部分”が喋りたくないのか、と思ってしまった。
しかし今なら分かるのだが、コミュニケーションにおいて疑問に思うことを質問するのはごく当たり前のこと。日本人相手なら、空気を読んで、気になるのかな、と察するかもしれないが、海外ではそんなことは通用しない。
この場合では、なんでそんな質問をしたのか、その背景はゾハイアという人間に興味があるからだ。だから知りたかった。
しかし当時はそんなことは思いもよらなかった。なんと言ったかは覚えていないが、話は次第にこれからのプランについての会話になる。
これからはロングロングドライブのようだ。地図で確認すると、次の目的地トズールまで200kmほどありそうだ。
既に朝から100km以上は走ってるので、これはタフなドライブだ。。自分一人ではこなせない。
そうして、トズールへと出発するのであった。