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チュニスからカルタゴへ

昨晩は良い思い出ができた。チュニスのメディナをもう少しだけ散策することに。
昨日とは打って変わって活気付いている。所狭しと人が行き交い多くの商品が店に並んでいる。

メディナの中心にモスクがあり、お店の屋上から目の前に綺麗に見えるというスポットをガイドから教えてもらい、その場所へ訪れる。

ジトゥナ・モスク

チュニスのメディナ(旧市街)の中心にあるジトゥナ・モスクは、アラビア語でオリーブ・モスクという意味で、現在モスクのある場所にかつてオリーブの木がたくさんあったことに由来しています。チュニス市内で一番古くて一番大きなジトゥナ・モスクは、チュニス市民の信仰の場所であると同時に、大勢の観光客が訪れるチュニスでも有数の観光スポットとなっています。
skyticketより

お店の屋上に出ると目の前がモスクだ。
綺麗な屋上。観光者向けに改装したのだろうか。
ユニークなデザイン。ツボが置かれているのではなく、モニュメントのようになっている。
個性的な店主。良い味出している。

 

さていよいよチュニジアの各地へと観光に旅立つ。次はカルタゴだ。ありがとうチュニス!

カルタゴとは

カルタゴを建設したフェニキア人は、古代ギリシャ時代から商才に優れた民族として知られていました。彼らは地中海南岸の海洋貿易を通じて急速に発展、もともとの本拠地であった現在のレバノン周辺からカルタゴに移り、アフリカ西岸やイベリア半島東岸にまで植民市を拡大しました。古代カルタゴで最も有名な人物といえば、アルプスを越えてローマを陥落寸前にまで追い込んだ名将ハンニバルでしょう。彼は今でもイタリア半島では恐怖の象徴であり、カルタゴのあるチュニジアでは英雄として紙幣の肖像に描かれています。ただし、ハンニバル自身は父が建設したイベリア半島の植民市カルタゴ・ノヴァ(現在のカルタヘナ)の生まれ。第二次ポエニ戦争後にカルタゴの復興に尽力しましたが、やがて祖国を追われてシリアに亡命し、その地で生涯を閉じました。しかし、世界遺産として登録されている今日のカルタゴ遺跡は、フェニキア人の国がローマに滅ぼされて以降のものです。前146年にカルタゴが陥落した際、ローマはその復活を恐れ、草一本生えることのないよう塩を撒いたと伝えられています。さまざまな場面で語り継がれる幻の都カルタゴの遺跡は、1979年に世界遺産に登録されています。
skyticketより

カルタゴにはもともとベルベル人が住んでいたが、紀元前9世紀ころにフェニキア人が入植しカルタゴを建設したそうだ。
時のローマ帝国にとって脅威にもなった存在であり、ヨーロッパの歴史の中で重要な場所だろう。

その遺跡群をカルタゴ遺跡と呼ぶ。以下写真と解説をダイジェストで。

カルタゴ遺跡

フェニキアの植民市カルタゴは、紀元前9世紀後半に建設されたと考えられています。衰退するフェニキア本国に代わって強力な海軍を背景に発展しました。

しかし商圏の拡大とともに、ギリシャやローマなど他の地中海諸都市との間に対立を生むようになりました。紀元前600~紀元前265年の間にはギリシャとの間で3度のシケリア戦争が、そしてローマとの間には紀元前264~紀元前146の間にやはり3度のポエニ戦争が勃発します。このうちハンニバルが活躍したのが、第二次ポエニ戦争です。

名将ハンニバル亡き後の第三次ポエニ戦争でフェニキア国家カルタゴは滅び、都市は徹底的に破壊されます。紀元前1世紀ごろにはかつてのカルタゴの跡に新しいローマの植民市が建設されました。そのため、現在の世界遺産カルタゴ遺跡では、典型的なローマ都市らしい円形劇場や浴場の跡が見られます。
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ビュルサの丘 向こうに見えるのは地中海だ。

ビュルサの丘

ビュルサ(フランス語表記Byrsa)にはカルタゴの城塞が築かれていました。ビュルサは、フェニキア人の言葉で城塞を意味するという説と、カルタゴの国を作ったというディードが牛の皮の大きさの土地を受け取るという神話から、牛の皮を意味するギリシア語が転じてビュルサになったという二つの説があります。
Travel Bookより

古代カルタゴの円形軍港。軍港と商業港がつながっており、古代カルタゴの繁栄を支えたそうだ。
現在では静かな湖のように見えますが、古代カルタゴの軍港で、南側は商業用の船のための港でした。この港が、古代カルタゴ繁栄の鍵を握っていたのです。ここから軍船が出航し、イベリア半島を征服していきました。
Travel Bookより
トフェ(または、トペテ。タニト神の聖域)と呼ばれる、幼児の墓地。フェニキア人は当時、都市の繁栄や戦争の勝利祈願のために、乳児を火に投じ神へ捧げる儀式の習慣があったとされるが、最近では疑問が持たれているらしい。

タニト神とバール・ハーモン神を祀った神殿です。古代カルタゴ時代の数少ない遺跡のうちのひとつです。古代フェニキア人の宗教では、生贄をしていたあとが残り、数多くの小さな子どもの骨が葬られています。古代ローマ人、プルタルコスの記述に基づいて、これは幼児を生贄にしていたことだと人々は信じてきましたが、最近では考古学の世界で、少し疑問が持たれるようになっています。

戦傷者であったローマ人が必要以上にカルタゴ人を残酷な民族であると信じ込ませようとしたかもしれません。この時代は、幼児の死亡率も高く、また火葬をする風習もありました。また、カルタゴ人の記録には、ヤギや牛など家畜を生贄にしたという記録がありますが、幼児を生贄にしたという記録は見つからないということで、人の生贄文化は誤りではないかとされてきているのです。
Travel Bookより

古代ローマの遺跡。これはアントニヌスの共同浴場で、広大な浴場。当時2階立てだったようで、100を超える部屋が左右対称に配置されていたそうだ。その他、住居跡、ローマ劇場、円形競技場などがある。カルタゴが滅ぼされた後の遺跡だ。
このアントニヌスの共同浴場は、紀元2世紀にローマの五賢帝の一人アントニヌス・ピウスによって建造された共同浴場です。アントニヌスの共同浴場は海に面したかなり大きな建物で、もともとは100以上も部屋があり、装飾が素晴らしく、床にモザイクが、壁にフレスコ画がたくさんあったと言われています。一部の床は残っており、モザイク模様が見られます。
Travel Bookより

ちなみに、アントニヌスの共同浴場から見上げる形に、丘の上に大統領別邸がある。
周囲は警備兵が何人も守っており、銃を手にしている
チュニジアでは空港や軍警察などの施設、大統領などの施設は撮影禁止なので、別邸を撮影しようものなら狙撃されてしまうのではないかとも思ってしまう。恐ろしい。
このあとに向う、丘の上にあるカルタゴ博物館途中で別邸を過ぎるのだが、もちろん警備は厳重。
その手に持っている銃を見て、ある意味ではここで危険を感じた。
….と書いたが、これは当時の話。ベンアリ独裁政権が反政府デモ拡大に伴い崩壊して以降は事情は変わっているはずなので、撮影可否含め、渡航する際は最新情報をチェックしてほしい。

紀元前の出来事を、こうして時を超えて静かに語る遺跡群にロマンや恐ろしさを感じつつ、ローマの共同浴場に驚く。古代ローマ帝国においては、様々な属州に公衆浴場は造られていたそうで、ここもその一つということだ。そういえばテルマエ・ロマエで阿部寛がそのあたり語っているのかな。見たことないけど。

さて、次はチュニジアに来る目的の一つであった、シディ・ブ・サイドへ!

自分の思考に向き合おう

日々忙しく過ごしていると、なかなか自分のことや今後のことを考える時間が持てない。そんなことありませんか?
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もし、そんな状況にあるのなら、ちょっとだけ立ち止まって考える時間を作ってみませんか。
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そのお手伝をします。対話の中から発見や納得が生まれることもあるんです。
立ち止まって、自分の思考に向き合ってみると、何かが見えてくるかもしれません。

一緒にその時間を作って見ませんか?

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